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尾崎豊と練馬を歩く伝説のロックシンガーが雌伏した街
光が丘公園
周囲を都営住宅や団地に囲まれた光が丘公園。中学時代の尾崎は「15の夜」に、ギターを抱えてここを訪れただろうか
撮影/若杉憲司

世出のロックシンガー、26歳の突然死


 1992(平成4)年4月25日、ミュージシャン・尾崎豊が26歳で夭折した。早朝、都内足立区千住河原町の民家の軒先に満身創痍で倒れていたところを発見された尾崎は、通報で病院に運び込まれる。大量のアルコール、身体中には無数の擦過傷、右目の上は打撲痕らしきものも認められたが、深酒のみという医師の診断で妻の繁美さんとともに千住の自宅マンションに戻る。
 5歳上の兄・康氏は当日の様子を克明に記録していた。康氏と当時のマネージャーがマンションに到着すると玄関前の車内に繁美さんが座っている。尾崎は後ろの席に寝かされていたため、マネージャーと二人で自宅に運び込む。泥酔で数時間にわたり七転八倒した末、いつのまにか脈と呼吸が止まっていたことに気づいた3人は急いで救急車を呼び、今度は文京区の日本医科大学付属病院に運び込む。しかし、その日の午後12時61分、ついに還らぬ人となる。直接の死因は肺水腫とされたが、前夜からの行動が不明だったため死に至る一連の経緯はいまだに明らかではない。4ヵ月前に急逝した母を追うかのような突然の死だった。5日後の追悼式には3万5000人が参列したという。
 昭和最後の10年である80年代の音楽シーンをまさしく彗星のように駆け抜けた不世出のロックミュージシャンは、同時代に生きる多くの若者の“巫女”として執拗に問いを投げ続け、そして、尋常ではない最期で人々の心に消しようのない痛切な記憶を刻み込んでこの世を去った。

練馬の都営住宅から一躍スターダムへ
雲に覆われた夕暮れの練馬の空
雲に覆われた夕暮れの練馬の空
(写真は都心に向かって撮影したもの)

 尾崎豊は生前「若者のカリスマ」と騒がれ、亡くなってからも「伝説のアーティスト」と呼ばれている。東京都練馬区の都営住宅を生家として1965(昭和40)年に生まれた彼は、後に裁判官になる兄とともに、陸上自衛官の父と勤勉な母が暮らす信心深い家庭で育てられた。練馬区立東中学から青山学院高等部に進学した尾崎は、16歳で曲を作り、CBSソニーのオーディションに合格してシングル『15の夜』とアルバム『十七歳の地図』を同時発売し、18歳の現役高校生としてデビューする。以降、『I LOVE YOU』『卒業』など代表作とされる作品の多くは十代の創作で、生涯71の楽曲を作詞作曲し、全6枚のオリジナルアルバムを世に出した。
 尾崎の魅力は、その美貌と美声、鮮烈でリアルな歌詞、人の本音に迫るような「生身の魂」を直感させる言動と挙動にある。なかでも、尾崎が「ロックアーティスト・OZAKI」としてありえた最も大きな理由は、きわめて稀少な「歌詞のリアリティ」にある。常套句を厳しく律して緻密に紡がれたその言語表現は、聴く者の動きを心身ともに一瞬止めるほどのリアリティに満ち溢れていた。言葉は“肉体”を獲得して曲と溶け合い、生々しく脈動していた。
 世界がロックという音楽を認知したのは60年代である。その扉をこじ開けたビートルズやボブ・ディラン、ローリング・ストーンズは、繊細でガラス細工のような感情の襞をそれまでこの世には存在しなかったビートと歌詞に織りまぜて、まったく新しい「音」を弾き出した。心の内奥を強烈なビートに乗せて歌い上げることで彼らが切り開いた「音」は、拙いギター演奏や歌唱力も問題にならないほど衝撃的だったのである。従来の音楽観を土台から揺さぶり、音楽世界で既成の価値観は根こそぎ引っくり返された。続いて現れたグラム・ロックのT・レックスやデビッド・ボウイは、そのビジュアルを通してさらに異相の世界を築き上げる。
 尾崎には秀でた表現力と抜群のルックスの両方があった。感情や思いをありのままの質量でそのまま言葉に変換する力は、常套句や技巧で詞を貼り合わせるミュージシャンたちとは明らかに一線を画している。

少年時代を過ごした練馬のトライアングル”
練馬東中学(通称「ネリトン」)の校庭
尾崎が通った練馬東中学(通称「ネリトン」)の校庭。
尾崎は「フォークソングクラブ」に所属していた
向山公園
中学2年の友人10名で家出した『15の夜』の舞台となった向山公園

 尾崎の作品には「自由」という言葉とともに「街」という言葉が無数に登場する。全91曲の歌詞を収録した『尾崎豊全詩集』(シンコー・ミュージック、85年)の最初の曲『街の風景』から『愛の消えた街』までの七曲だけで拾い上げても、歌詞に登場する「街」という言葉は11ヵ所にものぼる。兄の康氏は自著『弟 尾崎豊の愛と死と』(講談社、94年)で子ども時代の尾崎が育った環境をこのように述懐する。
 「……『原っぱ』は、僕が小学5年生のときに、突然、『公園』に変えられてしまった。たいして広くない土地の中央にすべり台が置かれ、さらにジャングルジムやブランコなどが置かれた」「……それまでの遊びのほとんどは、その『公園』では不可能になってしまった」「……豊が小学1年生になるときは、原っぱを中心とする子供集団はなくなっていたと思う。このことが豊の成長に、なんらかの影響を与えたかもしれない。豊がガキ大将を中心としたタテの関係のある伝統的な子供社会で遊ぶという経験をほとんどもたない、『都市型』の子供に属することはまちがいない」「このような子供たちは、必然的に同級生とのみ遊ぶことになり、交際相手は少数に限定され、遊ぶ場所は誰かの家になることが多い」
 「原っぱ」があった時代は与えられた遊具も区切られたゾーンもないなかで「遊び」と「憩い」は子ども自身が見つけ出し、あるいは創造した。子どもの世界は「家庭、学校、地域」で構成されるが、「地域」は子どもが自由の空気を吸い、遊びを創造する現場である。与えられた質問のなかで答えを見つけるのではなく、「問いそのものを発想」することに創造性の本質があるのだとすれば、遊具など何もない場面にこそ「遊び」は現出する。
 アスファルトが敷かれてゾーンが区切られ、公園ができた。原っぱが消えて登場した巨大公園は最大多数の最大幸福をめざして造成され、遊園地が建設され、学校も開かれる。子どもたちのさまざまな「遊びのニーズ」を具現化した遊具が準備された。遊びは「消費」されるものとなり、その消費は大人社会の「ビジネス」となる。50年代以降、学校は競争社会への準備機関に特化されて、本当に生きる力を育てる学舎からは遠く隔たる存在となっていく。
 練馬区で尾崎が少年時代を過ごした地域は「光が丘公園・光が丘団地」「豊島園」「陸上自衛隊練馬駐屯地」の3点を結んだトライアングルのちょうど中心に位置する。戦後政治と国民が両義性とダブルスタンダードで翻弄してきた日本の軍隊=自衛隊は、その存在自体が「戦後日本に突きつけられていたにもかかわらず解決されぬまま曖昧に放置され続けた(問い)」そのものである。創造力を不要とする“遊び場”、納得し難い矛盾を温存したまま送られる日常、囲い込まれた“自由”。そのトライアングルで構成された大人社会を幼少年期の尾崎が空気として吸い、思春期へと成長した。

『15の夜』『十七歳の地図』が生まれた時代
メリーゴーラウンド「カルーセルエルドラド」
豊島園。写真は100年の歴史を誇るメリーゴーラウンド
「カルーセルエルドラド」

 日本有数の遊園地である練馬の「豊島園」が開園したのは1927(昭和2)年。その約半世紀後の83年、千葉県浦安市の埋め立て地に突如として立ち現れたのが、非日常世界を極めた「東京ディズニーランド(TDL)」だ。TDLは「遊びを消費する」ための巨大な器である。『15の夜』『十七歳の地図』はTDLが日本に上陸したこの年に生まれた。尾崎は何度も遊びに通ったのだという。
 高度情報化社会という言葉がマスメディアを賑わせ始めたのも83年前後からだ。情報は生活の隅々に入り込むことで消費を急激に拡大する役割を担っている。したがって、83〜85年はその後に日本を狂乱の時代へと押し流してゆくバブル経済の序章となる時期でもあった。地域に「都会」と「夢」を運んできたはずの鉄道は「赤字ローカル線」を切り捨て、NTTの誕生による電話局の消滅で「地域」の拠点がひとつ消えた。民営化の嵐と軌を一にした東京一極集中で東京の地価は狂ったように高騰を続け、世の中はバブル景気に酔い痴れる。
 地域社会が衰退して子どもたちとのコミュニケーションの回路を見失った大人たちは、新たな「情報システム」の構築に巨費を投じて「テーマパーク」のような巧妙に設計されたコミュニケーションの回路を提示した。子どもたちとの間に生じ始めた欠落をビジネスと並行して埋められると考えたのである。しかし、「事件」は絶え間なく頻発し、その因果関係を見極められぬまま、85年の「プラザ合意」によりアメリカの決定的な金融支配と操作の掌に乗せられてしまう。日本のバブル経済が崩壊するのは7年後だ。それは偶然にも尾崎が亡くなった92年だった。

天才的な才能に翳る“危うい”挙動
尾崎豊 略年譜

1965 東京都世田谷区の自衛隊中央病院で誕生
1978 練馬区立東中学校入学
1981 青山学院高等部入学
1982 CBSソニーオーディションに合格
1983 高校在学中にデビュー シングル『15の夜』、
    アルバム『十七歳の地図』
1984 青山学院高等部に退学届を提出
    新宿ルイードでデビューライブ
1985 シングル『卒業』6大都市ライブハウス・ツアー
    のスタート
1986 単身渡米
1987 覚醒剤取締法違反で逮捕
1988 結婚
1989 長男誕生
1991 母、急逝
1992 肺水腫のため死去。享年26歳

 問いそのものを発想することにこそ創造は宿る。問われて答える社会システムとのコミュニケーションに、言葉にならない問いを抱えた存在は苛立ちを抱え、その違和感が恒常化し慢性化することで苛立ちはさらに募る。
 繊細で鋭敏な感受性を持ち、いつかは汚れる「無垢」ではなく、何に触れても汚れようのない「純粋」を生きる子どもたちは、尾崎に限らず、世の中とのギャップに精神が耐えられなくなり少しずつ侵されてゆくのかもしれない。尾崎が康氏の言うように「交際相手」を「少数に限定」する「都市型の子ども」だったのだとしたら、尾崎の「個人的資質」と相乗してそのコミュニケーションに独特のスタイルが培われたとしても決して不思議ではない。天才的な素養は半面、つねに危うい素養をも孕んでいることが多く、それがまた作品に尋常でないエネルギーを与えることになる。
 尾崎の天才的な才能の陰に怺うさ揩ェあったことを至近距離で体験した人は少なくない。ベストセラーを次々と世に放ち続ける出版社『幻冬舎』社長の見城徹氏も、尾崎の尋常でないエネルギーに触発された一人である。見城氏はNHK教育テレビの人気番組「知るを楽しむ」(2007年10月17日放送)のインタビューで、こう答えている。
 「尾崎は『この人は味方だ』と思った人に対して、独占欲が強いというか、『自分だけを愛してくれ』という全面的な愛情を要求してくるんです。アルバム発売後に全国ツアーがスタートした時も、彼は僕に『全部来てくれ』と言いました」「それで、途中で帰ったりすると『どうして帰ってしまったんだ。僕は見城さんの愛情が僕一人に向くまで、【黄昏ゆく街で】の連載を書かないことにします』なんて電話が尾崎からかかってくるんです」「だから、しだいに彼のまわりからは誰もいなくなっていきました。最後まで彼のそばにいたのが、僕と、長年彼と仕事を続けてきた音楽プロデューサーと、アートディレクターの3人だったんですが、彼らもやがて尾崎から離れていきました。やっかいなことに、本当は尾崎も誰かにそばにいて欲しいのに『見城さん、僕を見放さないで』とはならずに、逆に攻撃に出るんです。さすがの僕も、最終的には『お前とは二度ともう付き合わない』という形で決別することになりました」
 精神病理の専門家である医学博士・磯辺潮氏は、尾崎豊に太宰治や三島由紀夫と同じ資質があると前置きして、次のような所見を述べている。
 「尾崎は境界性人格障害者に特有の心性を有し、周囲を翻弄し、混沌とした状況へと自らの身体を投げ入れ、多くのトラブルを巻き起こし、ついには事故死とも自殺ともとれる最期を遂げました」「……自分の最も親しい人に、常に密接した関係性を要求します。言い換えれば、常時、膚接するかのような緊密な関係性のなかでしか、生きることができないのです」「つまり究極の一体感を相手に要求していたのです」「相手を振り回し続けて、相手が自分を見捨てないかを試し続けるのです。要求は限りなく増幅し続け、必ずその関係は破綻してしまいます」「尾崎は成熟していくことを拒絶しているように私には見えます」
(『人格障害かもしれない〜どうして普通にできないんだろう』光文社新書、03年)

必死で模索したコミュニケーションの回路
尾崎豊
わずか10年の音楽活動で若者に熱狂的な支持を得たミュージシャン・尾崎豊は、幼少年期を東京都練馬区で過ごした。オリジナリティ溢れる詞で彼が歌い上げる作品は、80年代の音楽シーンに異彩を放っている
撮影/田島照久

 コミュニケーションの回路がつながらない尾崎の資質的な苦悩は、しかし、同時代を生きた多くの若者の苦悩でもあった。なぜなら80年代はまさしく「コミュニケーションのあり方が問われた時代」だったからである。尾崎には、日常の密閉された人間関係のなかで「なぜ?」という問いが無数に生じていたのではなかろうか。そうであれば、無数に生じる「なぜ?」のかけらを残らず拾い集めて問い続けてしまう不随意筋のような資質は、恐るべき耐久力と持久力を要するに違いない。生き続ける力もなくなるほど疲れる営為だろう。身近な人々とのコミュニケーションで相手を振り回し、追い詰めていく尾崎自身が、実は追い詰められて疲れ切っていたはずである。
 しかし、問うことが創造の源であれば、ビートに乗せるための詞を紡ぎ出す力は、日常的な「問い」の集積によって磨きがかけられ鋭くなってゆく。鋭敏な感受性と集中力による極度の緊張で息が詰まるような“危うい”人間関係になってしまう尾崎のコミュニケーションは、だからこそ表現すべきテーマを絶えず獲得することができたのだともいえる。それによって、尾崎は80年代という時代を代弁しえたのである。
 ロックミュージシャン・尾崎豊に何らかのメッセージがあったのだとしたら、それは管理に対するアンチといった「外部」に向けられたものではなく、自己の内面に向けられた問いかけである。文字通り命をすり減らすようにして尾崎が問い続けたのは、ロックビートに乗せた「自己の探求」だったのではなかろうか。
 著書のなかで康氏が言う。
 「そのテーマとは、先生や、親や、あるいは友人や彼女といった、豊を取りまく人々との『関係』の考察がきっかけとなったものにちがいない。僕のことばで表現することが許されるならば、豊は『人と人との【結びつき】や【葛藤】はなぜ生じるのか』という点を追求し、表現しようとしていたのだ」(前掲書)
 長男が生まれた翌年の90年、アルバム『誕生』がオリコンチャート初登場で1位となる。そのなかで、尾崎はまるで自分に言い聞かせるかのように生まれたばかりの息子に語りかける。「生まれてきたお前はまちがってはいない」「誰も一人にはなりたくない。それが人生だ。分かるか?」と。
 康氏は、弟・豊が息を引き取る直前の鮮烈な記憶を次のように伝えている。
 「豊は、手を拳に握った。そしてそれを、まっすぐに空に向かって突き出した」「豊の最後のことばは、僕の知る限りにおいては、『……勝てるかな』ということばだ」「たたかって、たたかって、たたかって、死んでいった。僕の弟は、そうやって死んでいった。僕だって、弟は安らかに死んでいったといいたい。だけど、事実はそうじゃない」(同)
 尾崎が倒れていた民家を訪れた康氏は、瞬間的にそこが「練馬の家に似ている」と感じたという。不世出のロックミュージシャン・尾崎豊が最期の力を振り絞って拳を突き立てようとした相手はいったい何だったのだろうか。目に傷を負わせた何者かなのか。アルコールか。ドラッグか。あるいは自分の過去か。自分に潜む業か。それとも、生き延びるかもしれない未来か。
 シングル『卒業』が発売された85年は、日本が55年体制に幕を閉じていよいよ狂乱の時代への扉を開いた年である。詞はこのように締めくくられている。

仕組まれた自由に 誰も気づかずに
あがいた日々も 終る
この支配からの 卒業
闘いからの 卒業

JASRAC出0717529-701『卒業』

須藤 晃
「尾崎は何でも質問する人でした。
『クスリをやめるか人間をやめるか、ってどういうことですか?』と聞かれて、僕は『そりゃあ、死ぬってことさ』と答えたんですけどね」
【略歴】
音楽プロデューサー・作家。
1952年8月6日富山県生まれ。77年に東京大学英米文学科卒業後、CBSソニー(現SME)入社。カリントファクトリー取締役社長。ジャコベッティ取締役社長。よしもとアール・アンド・シー取締役副社長。
尾崎豊、浜田省吾、村下孝蔵、玉置浩二らと音楽制作のパートナーとして数々の名曲を発表する傍ら、作家としても活動中。

傍にいると「風圧」のようなものを感じた
須藤 晃


 夭折した人には誰しも憧れがあります。儚い美しさに対して。尾崎はあまりにも姿がきれいで作品が破壊的な人でした。両手の甲には「根性焼き」の痕があったのを覚えています。
 彼の歌はイデオロギーに満ちた反抗ではなく、束縛や抑圧をみんなに対して「苦しくないか?」と問いかける歌でした。僕には「この男が売れたらもしかすると音楽シーンが変わるかもしれない」との予感がありました。当時の僕は文学しか興味がなかったため、尾崎と「石川啄木」のイメージが重なったんです。同時に、当初から尾崎は長生きしないような感じもしていました。高い所から飛び降りたりするような無茶をしていましたから。酒の飲み方も「破滅的」でした。飲むと「吐くまで」とか。
 世の中が浮かれていて、みんな遊ぶことに夢中な時代なのに、尾崎は「なぜ生まれてきたんだ?」と気を衒うわけでもなく歌うんです。作家が持つ「社会的使命」のようなものがありました。傍にいて僕は何か「風圧」のようなものを感じていました。その誠実さ、生真面目さ、真剣さに。

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